触れられる夢の絵





―――強く思い描けばその絵が叶うのに、どうして自分の絵を描かない人間が多いのでしょうね?―――

マスターが目前のタンブラーに注がれていくオレンジアンバーの液体を見つめながら言った。





―――でも、これは私の絵なのでしょうか? 描いたのは私ではないような気がします―――

ふわり、とよなよなエールを(そそ)ぐ倫子さんが少し戸惑ったような表情で()いた。





―――その答えはもう出ていますよ。開店してから今日まで、ここに訪れたお客さんが証明しています―――

よなよなエールが注がれたバカラのタンブラーを目前に掲げ、

―――カンバスを用意したのは俺ですけどね―――そう切り出しマスターは優しく語り出した。






―――思いとして(えが)くそのカタチを月並みに夢と呼ぶなら、それに自分で触れられるか否かが問題なんです―――

一言、そう言い切ると大きくよなよなエールを(あお)る。



―――初めて此処(ここ)に来たお客さんは確かに俺の縁故に()る人間ばかりでした。

   でもその中から、一月(ひとつき)の期間に同じ店に三度(みたび)通う人間がいるとすれば、それはその店の主人が好いのです。

   俺は開店する『小町』の情報を彼らに与えただけですから。

   ここに訪れた人間たちは(おおむ)ね暇人じゃない。

   そんな彼らをプライベートタイムに三度通わせたあなたは素晴らしい―――


優しく語るマスターの瞳に奇形白熱灯が発する暖色の光が映り込む、揺れず、真っ直ぐに。






























―――そう言えば、同じ顔触れのおじさん達を何度も観たやわいね―――

暇人である104氏は、週3回は小町に顔を出していたこの一月間(ひとつきかん)を振り返り言った。





―――それにそういう人間たちが楽しむ同じ場所にこういう阿呆を同居させられる手腕も大したものですよ―――

マスターが手に持ったバカラのタンブラーで104氏を差し、にっ、と笑った。






―――誰が阿呆やわいねっ?!―――

104氏がすぐさま膨れて言葉を(はさ)む。























































昨年の秋、あの御邸(おやしき)できらきら輝く夢のような楽しい夜を過ごしたのである。

鈍い緑色にてらてら光る不気味なモクズガニを数え切れないほど窯で紅く茹で上げながら、その時間は瞬く間に過ぎ去ってしまった。




―――こんな夜がずっと続けばいいのに、さみしいですわ―――

あの時、あの御邸で、酔いの加減も深まり空が白み始めた頃、つい、と倫子さんがそう呟いたのである。




そして、その呟きが白けていく時間に飲み込まれた後、(わず)かな間をおいてマスターが訊いたのである。




―――()めない夢を見たいのですか?―――




酒精を(はべ)らせた瞳に囲炉裏(いろり)の煌々とする熾火を映して、マスターは静かに訊いたのである。

































































―――あのとき素直に『はい』と言えたあなたは素晴らしいですよ―――

マスターが倫子さんにまた優しく笑いかける。




















―――でも、私・・・酔っていたのかも知れませんでしょ?―――

マスターに素晴らしいと2回言われたことが嬉しいのだろうか。

きめ細かい陶器のような頬を紅く染めて倫子さんが言った。

























―――酔っていたでしょうね。 でもそれでいいのですよ―――

優しい笑みの中に少し意地悪そうなニュアンスを込めてマスターが倫子さんに言った。





























―――きっと醒めない夢などこの世に存在しないのです―――

たくさんの間際に辿り着くのが人生ですから、とマスターは言った。































―――よく分からんやわいね―――

黙ってくぴくぴ、よなよなエールを飲んでいた104氏が言葉を挿む。



































―――この夢も、あの夢も、いつかはきっと醒める時が来るんです―――

それが道理なんでしょうね、マスターは続けて語る。












―――強い夢を描くなら、その煌きが瞬く間、その刹那に絵筆を走らせなければなりません。

   実際夢を描くのは一瞬なんです。

   そのとき発露(はつろ)すべくして発露するのが強く純粋な夢だと俺は思うんですよ。

   じっくり考えて、方向を修正して、思い描いてというのを意識的に(こな)すものはただの夢見に過ぎないんですよ。

描くまでもない。

   そんなものへ、俺はカンバスを貸したりしないんです。

   飽くまで無意識にあたためられていた熱情が、何かの切っ掛けで(せき)を切って発露するものが本当に描く価値のある夢なんです。

それを逃さず描いて、

   あとはその夢に愛おしく触れ、あたためていけばいいんです。



   あなたは、あの時、一瞬でその絵筆を走らせたんです。

   もう、俺がカンバスを用意するのが大変だったくらいに―――



―――あの時酔っていたとしても、現実がこの絵なら、ちゃんとその絵は描けていて、いま触れられるものになっていますよ―――


ほら、と言いマスターは真新しいカウンターテーブルを手の甲でこんこん、と叩いた。



―――醒めない夢はないけれど、夢に触れながら、醒めないでいきましょう―――

マスターはそう言ったあと、にっ、とまた笑った。










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